律令制においては、
大学寮ではなくて
陰陽寮の管轄とされ、
太陽・
月を観測して暦を作成することが規定されて
暦博士(1名もしくは2名)・
暦生(10名)などが定められたが、実際には
中国の
暦法を輸入して日本で採用していたため、暦道は毎年の
暦注の記入と暦の頒布(
具注暦)、
七曜暦・
中星暦の作成や
日食の予測に限定され、また
天文道や
算道とも被るところがあったため振るわなかった。このため、
天平2年(
730年)より暦生のうち優秀者2名を
暦得業生として給費を行うなどの措置を取った。教科書としては『
漢書』・『
晋書』の暦律志や採用されている暦の注釈書(『
大衍暦議』・『
宣明暦経』)、『
定天論』・『
周髀算経』などが用いられた他、
算道の教科書である『
九章算術』・『
六章』などの数学書も用いられている。また、暦注の記載に関しては『
大唐陰陽書』などを参照したとされている。
平安時代に入ると、暦日と密接な方角禁忌が貴族の間で尊重されて、それらを知るための暦注が含まれた具注暦への需要が高まった。このため、次第に暦道も科学的な暦学から
陰陽道的な色を帯びたものに変質していくことになる。
平安時代中期の
賀茂保憲が子の
光栄に伝授して以後、
賀茂氏の
家学となるが、保憲は日食予想の成功率の低下などを憂慮して
呉越に留学していた
日延(
天台宗)に依頼して持ち帰らせた
符天暦の採用を図ったが朝廷に採用されず、光栄以後は表面上は宣明暦を掲げながら、秘かに符天暦も併用した。その一方で、符天暦と
密教が結びついた
宿曜道の台頭が暦道を脅かした。当初、暦道と宿曜道が共同して暦を作成していた時期もあった(『
小右記』
長和4年7月8日条)が、
長暦2年(
1038年)頃に両者の対立から宿曜道側が暦道の批判に回ったという(『
春記』長暦2年11月27日条)。
更に当時の風習として、「
朔旦冬至」(19年周期の最初の年に
11月1日が
冬至となること。慶事とされる一方で、大規模な儀式に費用がかかった)の到来や回避、「19年周期に7回訪れる閏月の最初が閏8月ではいけない」、「大の月が4連続してはならない」などの迷信が信じられて、これに基づいて天体の動きとは無関係に人為的な暦の調整(「
改暦」)が行われたほか、場合によっては暦算の誤りとそれを隠すために至り、符天暦の仕組を巧に用いて「口伝・秘伝」と称して本来あり得ない
置閏法の設定などによる暦を作成して極秘に調整する(日食や
夏至・
冬至の予定が狂う可能性が高くなる)などの暦道の振舞いに対して算道・宿曜道側からの激しい攻撃を受けた。更に
鎌倉時代以後には
仮名暦・
民間暦も登場した事によりその地位は大きく低下する事となる。