旧淀川 wikipedia|無料辞書
本来はこちらが淀川の本流だったが、
1907年(
明治40年)に放水路として新淀川が開削され、現在では下流について「淀川」と言えば新淀川を指す。旧淀川には区間によって様々な通称があり、一般には通称の方が用いられる。
◆ 地理
大川(おおかわ)とも、とも呼ばれる。
現在は本流となった新淀川の南岸・
都島区毛馬町で分岐、
川崎橋をくぐると西流に転じ、東からは
寝屋川が合流、
天神橋の直前で、
中之島をはさんで北側の
堂島川(どうじまがわ)と南側の
土佐堀川(とさぼりがわ)に分かれる。
新なにわ筋で
木津川を南に分けた後、中之島の西端で両川は合流する。合流後は
安治川(あじかわ)と称される。
安治川は、もとは曲がりくねって大阪湾に注ぐ川だったが、
1683年に
河村瑞賢が水運と治水のため九条島を開削して現在のような直線状に開削したものである。沿岸の
三角州には江戸時代半ば以降
新田が作られたが、明治以降工業地帯へと変わっていった。
河底トンネルである
安治川トンネルのエレベーター塔(安治川トンネル及び後述の渡船については
大阪市の公営渡船を参照)付近より川幅が急速に広がり、
港湾としての性格が強くなる。ここから下流は、戦後まもなく大阪港を内港化するために、川の南岸を削って幅を広げ埠頭を整備したもので、川幅の面では2kmほど北を並行する淀川(新淀川)と比べても遜色ない。
天保山大橋一帯が明治以後の旅客港としての
築港(ちっこう)で、最近まで
高松市や
小豆島まで客船が通じていた。またUSJへも観光船で行ける。天保山対岸の安治川北岸にあたる桜島は、築港と同時期に造られた工業港の北港(ほっこう)で、天保山からは市営
渡船で渡ることができる。
かつて築港は遠距離航路の拠点だったが、近年は本格航路のほとんど全てが戦後の埋立地にできた
南港発着となった。
曽根崎川はかつて堂島川の右岸を並行していた河川で、俗に言う蜆川(しじみがわ)。現在の
水晶橋付近で分流して、新地本通と堂島上通を両岸にしながら、
堂島大橋付近で再び合流していた。
元禄年間に河川を改修し、堂島新地・曽根崎新地として開かれる。しかし、1909年の「北の大火(天満焼け)」で瓦礫の廃棄場所になったため、直後に上流部を、1924年に下流部を埋め立てられ消滅した。現在でも、
桜橋や
出入橋、
堂島などの地名が残っている。
◆ 支流と分流
;主な支流
;主な分流